平成遺文集

平成の遺文を集めたものです。

書いてみようかと

「書いてみようと思ったんです。」

 

 今は、こういった不純な動機やふしだらな感情のはけ口がこうやってデスクトップ上の画面だからまだマシなんだろうな、と思う。画面の中だけで完結する。この画面以上に、何かが溢れ出ることもない。常に、停滞している。それで良いのかもしれない。

 

「イライラして」
「仕事が辛くて」
「カッとなってつい」

 

 最近よく、サークルの先輩のことを思い出す。彼は、真面目で理知的で理性的な大学生だったと思う。それは、僕が傍から見ていてもそうだったし、世間的な評価もそうだったと記憶している。なんなら、彼には彼女もいて、課外活動にも積極的に参加し自分の居場所をたくさん持っているような、「成功」している大学生だったと思う。
 それでいて、起業だの社会貢献だのといった、眉唾な事象には一切手をつけなかったのだから、しっかりと自分の立ち位置をわきまえているヒトだった。

 

 

 そんな彼は、ある時、すべてを失った。

 

 

 とても重要な、企業との会合に彼が来なかった。文字通り、失踪した。先方に連絡もなかった。彼女さんも連絡がつかなかった。

 その日の夜、彼女さんから泣きながら連絡が来た。

「警察に捕まったと。」
「女性のスカートの中を盗撮したと。」

 その電話で、僕は彼に起こった顛末を知った。その時、僕は、周囲に「とうてい受け入れられない」といった風を装っていたと思うのだが、その実、「なるほどなぁ」と思っていた。「魔が差した」といえばそうなのだろうが、僕は起こるべくして起こったのではないかと、そう思っているフシがあった。完璧すぎたのではないかと。

 

 彼は、社会的なバッシングを受けたし、それに加えて。サークル内での地位は愚か大学、課外活動、その他諸々のすべての居場所を失った。
 退学騒動にまで発展していたと思う。僕は、あんまりそういった政治内的なことには詳しくなかったので、込み入った事情はわからないが。

 

 結局の所、彼が評価されていたのは、彼の「成功している大学生」としての姿が評価されていただけであって、彼の本質は評価は愚か、誰からの理解もされていなかったんだと思う。その齟齬が、その摩擦が、少しずつでは有るが彼を痛めつけていたんだと思う。僕は、彼ではないので、これ以上彼を語るのはやめようと思う。

 

 もしかしたら、理由なんてないのかもしれない。僕だって、明日唐突に、電車で刺されるかもしれないし、エスカレーターで突き飛ばされるかもしれない。誰にだって平等に起こる、その貧乏くじを彼が引いただけのことだろう。

 

 だから、僕も「書いてみようかと」。その理由のない貧乏くじについて。

自分と僕と人形

ペダンチックに振舞っているが、その実、自分の底の浅さに戦々恐々としている。自分の底は一体どこにあるのだろうか、隣の芝は青いとはよく言ったもので、他人への扇情や羨望に苛まれているというのが実情だ。行き着く先がどこなのか、未だにわからない。「行き当たりばったりの、出たところ勝負。なるようになる。人生は意外とどうにかなる。」根拠のない自信はもはや、涸れかけている。実際問題、今まではどうにかなっていたが、これからもどうにかなるのかは誰にもわからない。僕にもわからない。

全能感とは真逆の、漠然とした不安感が時たま顔を覗かせる。どうしたいのか。どうなりたいのか。正直言うと、どうもしたくないし、どうにもなりたくない。ところが、僕の中にあるなにか、得も言われぬ、うごめく塊がそれを許さないのだ。将来は有名になって、お金を稼いで。なんの明確さも、計画性もない、夢、空想、妄想、妄言の類が、僕を掴んではなさないのだ。その塊は、きっと、承認欲求というやつだろう。誰に承認されたいのか。世間か?人か?世界か?わからない。いや、たぶん、わかっている。自分自身で納得したいのかもしれない。いや、納得したいのだ。自分に認められたいのだ。僕に折り合いをつけられるのは、他でもない自分自身のはずなのだ。そのはずなんだ。

どうして、ここまで、自分と僕が離れてしまったんだろう。ストックホルム症候群というのがある。「犯人と長く過ごすことで、犯人を良い人だと思うようになる」、そんな感じの現象だ。自分と最も長く一緒にいるはずの僕に、好意的な感情を抱かないこの自分という存在は一体何なのだろう。きっと、今の僕と理想の自分、いや、自分の理想か。良くはわからないが。近いようで遠い、この2つは、きっとどこかで袂を分かったに違いない。だからこそ、自分は僕を苦しめるのだ。僕は自分に不満たらたらなんだ。僕と自分は、違うのだ。

 

なら、本当の自分はどこにあるんだ。

 

自分はどこに向かっているんだ。

 

僕はどうすれば良いんだ。

 

自分に認められる日は来るんだろうか。

 

こういう心臓を剥き出しにされるような恐怖感とどう折り合いをつけたらいいのか、いまだに分からない。承認欲求を捨てよ。他人に認められようと思うな。アドラーか誰かが言っていた。他人から承認されたい欲求。わかる。ある。社会性動物であるから仕方がない部分もある。承認欲求とは思わないことにしている。人とうまくやっていくための、なんというか、手段?方法?テクニック?まあ、何にしかそう思っている。何度もいうが、承認欲求がないわけではない。他人からも。自分からも。アドラーアドラーか誰かわからないが、とりあえず、対象が必要なのでアドラーとしておく)は言う。自分につく他人の評価は、他人のもの。あなたがどうこうできるものではない。

そのとおりだ。だが、自分からつく、僕への評価はどうすれば良い?

アドラー(これはアドラーだったように思う)は、それに対しても答えを用意している。「自分は、自分の思い描いたようになる。たとえば、赤面症の人は、自ら望んで赤面症になっているのだ」と。医学的用語で言うと、疾病利得と言われるものだろうか。病気であることで得られる利益。たとえば、病気だから〇〇できない、でも、逆に言えば、○○しなくて良い。○○することで余計に恥をかかなくて良い、不安にならなくて良い、怒られなくて良い。そんなものだ。

じゃあ、自分が僕を認めないのも、自分が望んだことなのか?アドラー的には、僕が望んだことなのか?僕を苦しめる自分は、本当はいないのか?僕が、そういう「自分」を作り上げたのか?なんのために?僕を苦しめるため?なぜ?死んでほしいからか?僕に?

自分なんていないのなら、僕は誰に承認されたいんだろう。身近な人か?いや、身近な人は僕を認めてくれているはずだ。認めているというか、友達だ。僕が思っているだけかもしれないけど。そういえば、こういう不安もここ5年位前から出てくるようになった。向こうは、僕を友達と認めてくれているのだろうか。いや、一緒に遊んだり、同じ時間を共有したり、ともすれば、家に泊めてくれたりもする。友達じゃなかったらそんなことはしないはずだ。だから、きっと、彼らと僕は友達なんだ。そのはずなんだ。なぜ、こういうことを考えるようになったんだろう。他人の言動を深読みするようになったのはいつからだろう。ピュアに、真正面から、言動を受け止めていた頃の僕はどこに言ったんだろう。そう思うと、今の僕もまた、僕の中の別のナニかが作り上げたものらしい。そう思うと、それはきっと「自分」なんだろう。「自分」が「僕」を作り上げたのだ。「自分」の肉を削いで、皮をはいで作った肉人形が「僕」なんだ。「自分」は飽き性だから、一度作った「人形(ぼく)」も、作り上げてしまえばすぐに飽きが来る。だから、その「人形(ぼく)」を破壊したくてたまらないんだ。自分は、「人形(ぼく)」が嫌いなんだ。その都度作り上げる、「人形(ぼく)」という存在が憎らしくて仕方ないんだ。「自分」を出したいのに、自分が表出できるところは限られた友達の前しかない。長く連れ添った友達。それ以外の前では、「人形(ぼく)」が顔を出す。憎らしくて仕方ないんだ。○したくて仕方ないんだ。

 

なら。

 

ならば。

 

なんにも解決しないじゃないか。

ひねくれた自分が、作り上げた仮初の僕に苛立って、自己加害を決めているだけじゃないか。こんなの、なんの救いもないじゃないか。

 

今日は眠ることにする。明日になれば、「人形(ぼく)」が顔を出す。また、自分は、少しの間眠りにつくのだ。

遺文

 ふと,文章が書きたくなる時がある。

 それは,情動とも衝動とも違う,また別のおざなりな感情だ。でも,今日はそんないい加減なものに身を任せてみようかと思う。長く続くようなものではないだろうし,誰に問いかけるわけでもないが,それでも,書いてみようかと,そう思った次第である。

 こんな形で乱文を披露するのはきっと,これで三度目だと思う。一度目は,いつだったか,きっと僕がパソコンをまだおもちゃにしていた頃だ。二度目は,数年前。多分,Twitterを始めたのと同時期だ。

 一度目の場所は,もう影も形も残っていないし,僕自身,何を書いたのかさえ覚えていない。ただ,こんな鬱屈とした暗澹たるものではなかったと思いたい。

 二度目の場所は,何度か,最近になって見返すことがあった。非道い出来だったが,それでも,その頃の僕はそれなりに楽しんでいたのだと思う。いろんな語彙をあらゆる手段を使ってかき集めた,そんな場所だった。居心地が悪いわけではなかったが,僕はその場所を捨てた。今となっては,少し痛々しくも思える。

 振り返ってみれば,その頃はきっと,何かを吐き出したくて仕方がなかったんだと思う。何かを吐き出したいが,自らが空虚なことを露見させるのが嫌で,急に拵えた新しい言葉なんかを挙げ連ねてみて,なんとか体裁を保っている,そんな印象を持ってしまった。

 それはきっと,今も変わっていないのだと思う。だからきっと,ここが三度目の場所になったとき,もし仮に見返すことがあったとすれば,そのときは,えも言われぬ気持ち悪さにさいなまれることになるんだろうな。

 

 これでちょうど,666文字だ。意図していなかったとはいえ,なんとも気味が悪く思えてしまうものである。どういうわけか,そういう星の名のもとに生まれてしまったのだろう。

 

ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。— ヨハネの黙示録1318節(口語訳)

 

 世界では沢山の人々に読まれているであろう新約聖書の一説だが,いまだに666の具体的なニュアンスをとり,納得行くような説明がなされているということは,Wikipediaを見る限りなさそうだ。一般的には,悪魔や悪魔主義的な凶兆を指して用いられることが多い。

 ともすれば,666文字なるこの文章も,どこか悪魔めいた,凶々しい何かがあるのかもしれない。それが,誰かに牙をむくところを想像したくは無いし,実のところは,誰にも悪いことなんて起こらないのだろう。

 最近,世界五分前仮説だとか,そういった類のものに固執している。無い物ねだりで生まれた意味を探しているのかもしれない。だから,そんなものは,はじめからなかったのだと,ピシャリと言い切ってくれるそんな仮設に縋っているのかもしれない。

 生まれた理由も,死ぬ理由も,きっと自分では選べないから,選べないからこそ,そこになにかの理由を求めたくて仕方がないのだと思う。だから,この666の偶然にもなにかの理由がほしいのだろう。

 

 与えられた理由に価値があるのかは知らないが,それでもきっと,精神が脆弱で希死念慮にかられている僕にとっては,そんなものがとてもありがたく思えるのだろう。