平成遺文集

平成の遺文を集めたものです。

遺文

 ふと,文章が書きたくなる時がある。

 それは,情動とも衝動とも違う,また別のおざなりな感情だ。でも,今日はそんないい加減なものに身を任せてみようかと思う。長く続くようなものではないだろうし,誰に問いかけるわけでもないが,それでも,書いてみようかと,そう思った次第である。

 こんな形で乱文を披露するのはきっと,これで三度目だと思う。一度目は,いつだったか,きっと僕がパソコンをまだおもちゃにしていた頃だ。二度目は,数年前。多分,Twitterを始めたのと同時期だ。

 一度目の場所は,もう影も形も残っていないし,僕自身,何を書いたのかさえ覚えていない。ただ,こんな鬱屈とした暗澹たるものではなかったと思いたい。

 二度目の場所は,何度か,最近になって見返すことがあった。非道い出来だったが,それでも,その頃の僕はそれなりに楽しんでいたのだと思う。いろんな語彙をあらゆる手段を使ってかき集めた,そんな場所だった。居心地が悪いわけではなかったが,僕はその場所を捨てた。今となっては,少し痛々しくも思える。

 振り返ってみれば,その頃はきっと,何かを吐き出したくて仕方がなかったんだと思う。何かを吐き出したいが,自らが空虚なことを露見させるのが嫌で,急に拵えた新しい言葉なんかを挙げ連ねてみて,なんとか体裁を保っている,そんな印象を持ってしまった。

 それはきっと,今も変わっていないのだと思う。だからきっと,ここが三度目の場所になったとき,もし仮に見返すことがあったとすれば,そのときは,えも言われぬ気持ち悪さにさいなまれることになるんだろうな。

 

 これでちょうど,666文字だ。意図していなかったとはいえ,なんとも気味が悪く思えてしまうものである。どういうわけか,そういう星の名のもとに生まれてしまったのだろう。

 

ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。— ヨハネの黙示録1318節(口語訳)

 

 世界では沢山の人々に読まれているであろう新約聖書の一説だが,いまだに666の具体的なニュアンスをとり,納得行くような説明がなされているということは,Wikipediaを見る限りなさそうだ。一般的には,悪魔や悪魔主義的な凶兆を指して用いられることが多い。

 ともすれば,666文字なるこの文章も,どこか悪魔めいた,凶々しい何かがあるのかもしれない。それが,誰かに牙をむくところを想像したくは無いし,実のところは,誰にも悪いことなんて起こらないのだろう。

 最近,世界五分前仮説だとか,そういった類のものに固執している。無い物ねだりで生まれた意味を探しているのかもしれない。だから,そんなものは,はじめからなかったのだと,ピシャリと言い切ってくれるそんな仮設に縋っているのかもしれない。

 生まれた理由も,死ぬ理由も,きっと自分では選べないから,選べないからこそ,そこになにかの理由を求めたくて仕方がないのだと思う。だから,この666の偶然にもなにかの理由がほしいのだろう。

 

 与えられた理由に価値があるのかは知らないが,それでもきっと,精神が脆弱で希死念慮にかられている僕にとっては,そんなものがとてもありがたく思えるのだろう。